かわいそうな蚕


彼は私と自宅前の道端で出会ったのかどうかについてしきりに尋ねた。だが今となってはこの記憶についても定かかどうか知ることはできない。この部屋の中には彼のうす茶色い影が大きく壁全体に拡がっており、私の影は私の後ろ側から私を縛る。私は彼の目を見ない。私は時計塔のある大きな町に住んでいる。
「ね、これちょうだい」
彼女は私の足元に散らばった紙くずを、紙幣か何かを扱うように丁寧に拾い集めては畳んで抱きかかえる。あとで蚕にやるのだ。
「ちょうだいよ……」
「構わんよ。ああお前またあの蚕を食べたのか。顔色が悪いぞ」
「また。お兄様は未だに何もわかっていらっしゃらない」
そう簡単に頬を染めるな。こちらまで照れてしまう。
私はただ赤や黄色を必要以上に恐れ、それ以外のことに対してもひたすら臆病になるしかなかった。私は私の吐き出した言葉や私のしたことを延々と繰り返す。レコード、冷たい鏡。じきに、全員が私の言うことしか言わなくなる。
私の影ももう私を放したかもしれない。それでも私は後ろを振り返らない。
彼は続けた。
「赤や黄色なんかをご覧になるとよろしい。目が冴えますよ」
「ほんと……それじゃ、あたし、明日は赤いドレスを着てくるわ」
妹は口からまるまると太った蚕を取り出して、身を乗り出して彼の話に耳を傾けている。蚕は従順で、おとなしく彼女のひざの上に寝そべり、頭を撫でられて白目を剥いていた。
「ね、お兄様いいでしょう」
「ね、いいでしょう」
蚕は彼女の真似をして啼いた。もしくは、妹が蚕の真似をして言った。シンフォニックな旋律。
「夢のようだよ」
と彼が言うので、私は頷いた。
蚕が少し痙攣している。
「可哀想。まだ外気が冷たいのね」
「可哀想」
と蚕。
「こら。何をしてるんだ」
「こら。何をしてるんだって」
「だって。噛んでないわ。お利口だから」
明るく賑やかな話し声が、廊下まで響き渡っている。
「お利口だから」
と蚕。やだな。恥ずかしいよ。裸で耳に入るなんて。
カーテンが瞼に当たって痛い。我慢ならないな。
「うるさいうるさい。やってしまえ。そんなもの」
私は妹の口の中に両腕を突っ込み、じたばたとしながら奥へ逃れようとしている蚕を捕まえて、無理矢理に引きずり出し、勢いよく床の上に放った。びた、べちゃり、と蚕はその場に崩れ、腹の隙間から涎を垂れ流し、狂ったように馬鹿馬鹿とわめき散らした。すると妹は、あ、なんてひどい、と私の胸倉を掴んで、瞳孔を見開き、丸ごと蹴り飛ばし、微笑。やがてそこには心臓だけが残って、かなりあとで、蚕は小刻みにぶるぶると震えて見せた。
「ああ……可哀想に」
彼女は大粒の涙を流しながら、彼を拾い上げ、埋葬の様子を想像し、また、教会での葬式の間中、何度も涙を浮かべ、哀れ、それから何十年もたった今も必ず毎日、安っぽい赤いドレスを着て私の傍らまでやって来る。それから日暮れまで、寝たきりの蚕の世話をして帰る。











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